住職の素顔

<経緯>
農業が主流だった昔と違い、今は息子や娘は家を離れて世界中に散らばり、なかなか家に帰って来る機会はありません。お墓参りなども彼岸、お盆ですら戻ってくるのが稀になりました。しかし、何かの機会に自分の両親や先祖のことを思い、これからの自分の行く末を考える時、お墓は大切な縁となるのではないでしょうか。そんなことを思い、忙しくても、遠くとも、“墓参りができる”ネット墓地を生前に作っておくことにしました。
<経歴>
1948(昭和23)年6月28日
千葉市中央区川戸町で生まれました。戦後間もない頃で農家がまだ元気でした。父は農協関係に務めていましが、兼業で祖母と農家を営んでいました。船橋の酒屋から嫁いだ母は生保レディをしながら農作業を手伝っていました。
1954(昭和30)年4月
千葉市本町にある本町小学校に越境入学。本当は自宅近くの千城小学校に通うはずだったのですが、母親が“田舎ぶり”に驚いて転校手続きをした結果と聞いています。小学校時代は毎日のように野球をしていた記憶がありますが、勉強をしていた記憶は余りありません。通信簿は平均3程度でした。俄然やる気を出したのは4年からです。
1961(昭和36)年4月
千葉市立葛城中学入学。成績はずっと1番でした。飽き足らず2年から「青雲の志」を抱いて、東京都大田区にある叔母の家に下宿し大田区立貝塚中学校に転入。転入後すぐに生徒会長。体育では陸上部で走り幅跳びに専念し大田区第3位に入賞したことも。晩年からは考えられない“輝かしい時代”でした。
1964(昭和39)年4月
東京都立八潮高校入学。本当は当時東大入学者数全国1位だった都立日比谷高校を受験したのですが、見事に落ちました。それで旧都立第八高等女子学校にまわされました。八潮高校は図書館が充実していて、ドストエフスキー全集がありました。毎日授業が終わってから図書室に通い、読み耽った記憶があります。旧女子系の高校とあって、女子には人気の高校で、目を見張るような美人が多く、初恋も1年生の時でした。クラブ活動は生物部、演劇部などを転々としました。2年生から生徒会長を務め、昔あった「校内合唱コンクール」を復活させたのが唯一の業績です。
1967(昭和42)年3月
東大受験に失敗。駿河台予備校に入学。下総中山にある駿大寮に入りました。
1968(昭和43)年4月
東大理科U類入学。元々は医者になりたくて、理科V類を狙っていたのですが、遊びほうけていたため成績が伸びずU類にしました。東京医科歯科大学も受験しました(受験番号は1番でした)が、東大合格と同時に受験を放棄。入学してすぐに医学部を発端とする「東大紛争」が勃発。5月には学生による全面ストライキで授業が受けられなくなりました。いろいろな学生運動の派閥が暗闘。私もたまにはゲバ棒を振るったり、機動隊に石を投げたりしましたが、すぐに空しくなり止めました。むしろ、記憶にあるのはこれ幸いと、アルバイトに走ったこと。家庭教師やら日本食堂の弁当作りなど、いろいろ経験。翌69年はこのストの影響で入学試験中止となりました。クラブ活動は、入学早々男声合唱団「コールアカデミー」に入り、ピュアーな音楽活動に精を出していました。レクイエムとかミサ曲がレパートリーの実に真面目なクラブでした。メンバーの多くは出世して、大会社の社長や東大を初めとする大学の教授になりました。コールに所属していた1969年3月、ドイツとオーストリアに演奏旅行をしたことが忘れられません。初の海外旅行でした。オペラやクラシック音楽に目覚めたのもこの頃です。
1971(昭和46)年4月
本郷の農学部水産学科に進学。ほとんど勉強もせずにいたので、希望者が少なく一番進学しやすい学部・学科へと進みました。なんとも情けないことです。そのせいか農学部での良い思い出は殆どありません。実験で解剖した魚をガスバーナーで焼いて食べるのが楽しみだったことや漁法実習で泳げなくて教授に呆れられたこと程度しか記憶にありません。
1973(昭和48)年2月
妻・久栄と結婚。アルバイト中に多摩美術大学の学園祭で見初めたのがきっかけです。新婚旅行は紀州。旅行中もホテルで就職の準備と卒業論文書きに追われていました。
973(昭和48)年4月
日本経済新聞社に記者として入社。浦和支局へ。毎日意地悪な支局長にいびられていました。
1976(昭和51)年3月
3年の任期を終え東京編集局産業部へ転勤。ようやく羽を伸ばせるようになりました。この後精密機械産業、エネルギー産業、鉄鋼産業などの分野を担当。大きな特種はありませんでしたが、エネルギー担当の時に、円高による戦後初の電気料金引き下げをスクープしたのは記憶に鮮やかです。
1988(昭和63)年3月
大阪経済部に経済部デスクとして転勤。同期で初のデスク昇進で気が大きくなっていました。酒、カラオケの毎日で部下の顰蹙を買い上司からも睨まれました。最低の日々。そのせいか、大阪は余り好きではありません。
1990(平成2)年4月
テレビ東京出向。2年間狂っていたお陰で、テレビに”飛ば”されました。当時新聞から見てテレビは報道機関としては2流、3流で大きなショックでした。しかしこれも自業自得。 以降、テレビ東京経済報道部のデスクとして経済番組「ワールド・ビジネス・サテライト」(WBS)の制作に邁進しました。初代のキャスターは後に国会議員になった小池百合子さん。2代目は後に三洋電機会長まで務めた元NHKスポーツキャスターの野中ともよ氏、3代目はテニスの松岡修三氏と結婚した田口恵美子嬢という具合。新聞とは似ても似つかない世界。いろいろ矛盾を感じたりしつつ番組制作に励んでいました。
1997(平成9年)3月
報道局次長兼経済報道部長・WBSプロデューサーに”出世”。4月には早速、キャスターに小谷真生子さんを起用し、思い通りに番組を作り始めました。以降、視聴率はうなぎ昇りに上がり、内外の賞を獲得し始めました。
2000(平成12)年6月
思う所あって日本経済新聞を早期退職。この間の事情は小説「虚飾のメディア」(後述)に若干触れてあります。以降、職安に通いながら、小説家として生きることを模索するも、才能のなさに気付かされ、以前から気になっていた仏門に入ることを決意。千葉市・川戸町の生家の隣にある曹洞宗・福壽院の門をたたきました。
2003(平成15)年6月 福壽院にて得道(出家)。
2004(平成16)年4月〜翌3月
愛媛県新居浜市にある瑞応寺にて修行。20代の、自分の息子と同年代の雲水と起居をともにし、苦労しました。
2004(平成16)年12月
経済小説の大家・高杉良氏に勧められて書いた経済小説「虚飾のメディア」でダイアモンド経済小説賞佳作。
2006(平成18)年12月
縁あって千葉県御宿町の長慶寺住職に。
2007(平成19)年4月
勝浦ロータリークラブ入会。
2008(平成20)年12月
御宿町の町議会議員補欠選挙に出るも落選。
2011(平成23)年9月
御宿町町議会議員選挙に再挑戦するも落選。地縁・血縁・金の縁 の厚い壁を痛感し、失望。残念ながら御宿の沈没を確信。この間、平成6年11月(テレビ東京時代)に山梨県北杜市の八ヶ岳山麓に別荘が完成。2006年以降は御宿と八ヶ岳の間を往復する日々が続く。
<趣味>
・大学時代に始めたオペラ、クラシック音楽鑑賞〜記者時代に1年間ニューヨーク留学した際、毎晩メトロポリタン歌劇場に通い ました。目にしたオペラは約40種類。他にバッハがお気に入り。
・山登り〜93年9月に高村薫の直木賞受賞作「マークスの山」に魅せられて日本第2の高峰・北岳初登頂。以来、深田久弥「百名山」に挑戦。
・読書〜濫読。好きな作家は井伏鱒二、北村薫、ロアルド・ダール。
・食べ歩き〜新聞記者時代から自分なりのミシュラン・ガイドを作り食べ歩く。ラーメン、とんかつ、鰻、蕎麦、カレーなど東京都内を中心に。フレンチは高価で気取るので余り好まず。死ぬ時には南千住「尾花」の鰻重か上野「ぽんた」のかつ重が食べたいと念願。
・落語鑑賞〜つきに1、2度、国立演芸場や東京都内各地の寄席に通うほど。古今亭菊乃丞、滝川鯉昇を評価。歴代では桂文楽、古今亭志ん朝。長慶寺でも定期的に落語会を開催。
<信条・座右の銘>
真実一路
<妻・家族のこと>
幸い1人の妻、2人の子供に恵まれ、まだ家族・親類から逮捕者は出ていません。皆健全で健康。面白くもない一家です。
<日本・世界のこと>
世界は資本主義の次に主となるべきイデオロギーを見つけ出せず、至る所に錠びが出始めています。欧州の金融危機、日本の財政危機、皆根は一つ。強欲なアメリカの資本主義=市場経済主義はその末期的な症状。TPP(環太平洋経済連携協定)もアメリカの欲望の延長線上にあります。そして日本は大地動乱の時代に突入。 こうした時こそ、仏教の考え方が世界を丸く治めるでしょう。欲望を捨て、中道を行く。お互いに慈悲の精神で助け合う。空(くう)の精神で臨めば・・・。人間はもともと宇宙の塵、自分も他人もありません。私は死んでも、元の宇宙の塵(空)に戻るだけ。目には見えないが素粒子や原子として確かに存在する。家族よ、兄弟たちよ、何をあくせくすることがあろう。ゆったり未来永劫、宇宙に漂よい続けようではないか。<偉大なる素人> 夏目漱石の「三四郎」に出てくる廣田先生のような世界の暗闇、偉大なる素人。それが私の人生。地球の片隅でしっかり地に足を着けて、自分を偽ることなく、他人を傷付けることなく。

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